絶対話せる!英会話

ボランティアと違って。

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最近、大家さんの孫が言った。「彼女たちを助けるのに、自分の中には相反する感情が存在する。」実は私もそういう気持ちが分からないでもないと、感じ始めていた。これは少し前まで隣に住んでいた中国人母子に対して、である。こういう感情は、私たちだけではなく、大家さんの姪っ子も同じようだ。彼女は特にいつも11歳の女の子の面倒を、自分の娘と一緒にまとめて引き受けているので、さらに強く思っていると思う。

先日大家さんの姪っ子が私に言った。「自分たちが良かれと思ってやっていることは、実は彼女たちのためにはならない。却ってお母さんをダメにしているのではないか。」と。大家さんのお爺さんは、姪っ子と孫の会話を聞いていたようで、私にも「気をつけなさい。あのお母さんはkbt を使っているだけかもしれないし、単なる怠け者なだけかもしれない。」と言い始めた。

私は大家さんの孫や姪っ子と違って、実はお母さんとも割りと仲が良い。言葉はあまり通じていなく、どこまで通じているのかは完全には分からないのだが、何となく彼女が私に親しみを持っているのは、分かる。そのため彼女に全く悪気がないのも理解している。そしてまだ4ヶ月の赤ん坊を抱えて外に働きに出ることができないのもわかる。しかし私も大家さんの姪っ子と同じように感じるのだ。自分のことは自分でまずやらないと、いつも人に頼ってばかりでは、この人たちの将来がますます暗いものになってしまうのではないか。

そして例え家にずっといなくてはならないとしても、英語の勉強くらいはできると思う。そして11歳の娘を通じて私たちに「これを手伝ってほしい。」と伝える前に、自分でそのことをしようとした努力の跡が多少は見えてもいいと思う。そういう姿が見えないから、大家さんの姪っ子と孫が、「確かに困っているので放っておけないけれど、何で少しは自分でやらないの?」と思い始めているのだ。

私は基本的に人任せな人が苦手だ。日本にいるときからそういうタイプの人は私の周りにはいなかった。自分で何も切り開かない人に、私は魅力を感じないからだ。でもここは外国だし、言葉がまるで話せない状態では、確かに一人では何もできないこともある。だから手伝う。通訳をしている娘だって、まだ1年8ヶ月しか英語圏で生活をしたことがなく、子供では無理なこともたくさんあるからだ。そして実はおじいさんは今月のはじめに中国へ帰ってしまった。1年くらい経たないと、また戻っては来れないらしい。

先日はルームメイトを探したいと11歳の娘に言われた。マンダリンしか話さないお母さんなので、マンダリンスピーカーのみしか(そして女性のみしか)ルームメイトにはなれないだろう。ルームメイトを探そうと思ったら、スーパーへ張り紙でもすればいいのに、と普通は思う。(こちらでは同胞のルームメイトを探すには、そうすることが多い。大抵どこのスーパーにでもあるので、お母さんも知っているはず。)しかし張り紙を作るよりも先に娘の方が、私たちに伝えてくるのだ。ひょっとして娘の方が気を利かせて、お母さんが頼まなくてもやって来るのかもしれないと思ったのだが、実はそうでもないことが最近分かってきた。

私は会社に中国人もいるので、知り合いの知り合いを通じて、LA近郊に住んでいる中国人がよく利用する中国人ウェブサイトを教えてもらった。先日それを渡しに行き、お母さんにウェブサイトを見せながら「このページ、ここに情報を入れるんだからね。」と念を押して帰ってきた。英語のページでは彼女が何も情報を入力できないからだ。それにまずは自分でやってもらおう、と思ったのだ。その翌週、娘に頼まれていたので、6年生の準備のためのお買い物に連れて行った。もうすぐ学校が始まるのだが、用意するリストは英語で書かれているため(そして11歳の彼女もまだ自分で完璧に用意できる自信もないので)こういうときお母さんは手伝うことができない。なので私が手伝う。私はこういうことには全く問題はない。むしろこういうことなら、喜んで手伝う。

しかしその日、私が彼女に「お母さんは広告を載せた?」と聞いたら、「まだやっていない。」と言うのだ。まだ11歳になったばかりの女の子にあまり言いたくはなかったが、「お母さんに、それはすぐにやりなさいと伝えてね。」ときっぱりと伝えた。そしてどうしてそれをお母さんがやらないとダメかも話した。私たちがいつも手伝えるわけではないこと。移民の人は皆言葉で苦労しながらも、自分たちで何でもやっていること。私だって昔はよく言葉も分からなかったけれど、怒ったり怒鳴ったりしながらやってきたこと、などを話した。これって絶対に彼女ではなく、お母さんの方に言うべきことなのだが、どこまで言葉が通じているのかが分からない状態では、彼女の口から伝えてもらうしかない。

悪気がないのは分かっているのだが、悪気がないゆえの行動だからといって(この場合は自分ではまず行動しないこと)全てが認められるわけではない。ここはアメリカ、そして私たちは移民。自分で行動しないと、何も手に入らない国、アメリカ。市民でさえ基本的人権があるのだかどうだか分からないような生活をしている人がうようよしているのに、移民がそこから抜け出そうと思ったら、それなりに努力しないと、本当に最低レベルの生活で一生が終わってしまう。どうにか英語を勉強するくらいの姿勢は見せてもらいたい。

子供たちを放っておけないから、私たちも手助けをするのだが、それに甘んじている態度は、やっぱりしてはいけないだろうと思う。それと娘の方も、皆の好意にいつも必ず感謝している態度をしないので(これもかわいそうなのだが)、最近は私は「何かしてもらったら、皆にありがとうって言わなきゃダメ」と言っている。こういうことを彼女に言うのも気の毒なのだが、そうすることによって周りの人の態度が変わるのも確かなのだ。人間って単純なもので、大人であろうが、子供であろうが、「ありがとう」と言われたら、また何かしてあげた方がいいかもしれない、と思うものなのだ。なので私にお礼を言い忘れたら、両手でヘッドロックをして冗談っぽく「ありがとうは?」と言っている。私にお礼を言わないのは別に構わないのだが、私は彼女に皆に感謝の気持ちを伝えることが大事、ということを分かってほしいのだ。

ボランティアと違って、人の生活を助けるということは大変なのだな、と最近つくづく思っている。それほど大したことはしていないにも関わらず、だ。なぜなら自分のプライベートライフと、彼女たちの生活は深く結びついてしまっているからだ。突然遊びに来られたり、予定外に何かを頼まれたり。その度に自分のスケジュールをたてなおしたり、しようと思っていたことができなくなってしまったりする。何かできることはしてあげたいが、いつも気持ちよく手伝えるわけでもない。これが大家さんの孫が言っていた相反する感情である。

ボランティアは言葉は悪いけれども、善意の行動の時間売りのようなものだ。基本的にどこかしらの場所へ行き、何らかの手伝いをする、時間が終わったら、また来週。自分のプライベートライフにボランティア活動が予期せずに入り込んでくることはまずない。自分で時間を選べるからだ。自分の行動を変えられることで不快な思いをすることは、ボランティアではないだろう。それには終わりがあるからだ。もちろんそういう行動を仕事にしたりする人はいるだろうが、ボランティアは時間で終わる。そしてその関わった人たちの人生に深く入り込むことはない。

私たちは皆どうしたらいいのか、考え込むようになってきてしまった。いつも考えているわけではないが、彼女たちのことを考えると、私たちは何だか気が重い。できることも限られているし、かと言って、いつも助けるのがお母さんのためになるとも思えない。しかし娘たちのことを考えると、私たちもできる限りのことはしてあげたいし、放ってもおけない。

私はいっそのこと、お母さんのlanguage exchange partner になって、それに徹しようか。そうすればお互いにwin-win situation になって、私もこういう複雑な感情を持たなくて済むか?

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