最近とてもよく話をするようになり、仲良くなったクラスメートがいる。今日は彼女から聞いた話を書いてみようと思う。
彼女のマスターのメジャーは、人の健康に奉仕するためのプログラム。なので私はきっと使命感に燃える人が多いのだろうと思っていたのだが、彼女に言わせると、決してそうではないらしい。そのプログラムは、白人とアジア人が圧倒的に多いとの話なので、その地域以外から来た外国人である彼女の意見が完全に客観的であるとは言えないだろうが、話をしている限り、彼女は決して卑屈に物事を受け取る人ではないし、大げさに物を言う人ではないように思われる。しかし彼女は時々クラスメートの失礼な態度や発言に驚かされるらしい。「何でこんな人がこのプログラムを選んだのだろう?」と、クラスメートについて不思議に思うこともあるようだ。
以前彼女が取ったクラスには、日本人がいたらしい。その人はまだアメリカに来たばかりで英語がそれほど話せなかったとのこと。彼女のクラスはコミュニケーションが大事なマスタープログラムばかり。なのでグループワークも多い。そこでその方は完全に浮いてしまったらしい。そして某アジアからの移民の彼女(子供のときにアメリカにやって来た移民)が、彼の目の前で彼にこう言い放ったそうだ。「何で英語もロクに話せない人をここに入学させたのか、全く分からないわよ。」と。
私の友人はこのときまでに、その彼女の態度を度々失礼だと思っていたので、そして“英語が話せないからといって、その人自身の能力が劣っているというわけではない”と思っていたので、そのときは切れそうになったそうだ。しかもその方は恐らくその場にいた他の人たちよりは、知識は豊富と思われる職業の方であったがゆえになおさらそう思ったらしい。その方はグループのミーティングにも、最後はお声がかからなかったらしい。
また別のクラスでは、同じく英語があまり得意でない中国からの留学生がいた。彼女はどうも公の機関の補助を受けての留学生だったらしい。なので恐らく中国では選ばれた優秀な人なのではないかと思われる。しかしグループワークをするときに、誰も彼女を選ばなかったらしい。
私の友人は、こういう人を除け者にする態度に怒っており、そういう人たちが “マイナーで機会を与えられていない人たちに、健康サービスを提供することを勉強するプログラム” にいることが信じられない、と言っている。確かに、私もそういう思慮や思いやりに少し欠けた人たちがそのプログラムにいることには驚いた。しかし、いくら人に奉仕する職業に就くためのプログラムとは言え、アメリカは競争社会だし、グループワークで誰かに足を引っ張られて成績が下がるのは耐えられなかったのだろうな、とも思う。
私がもしそこにいたら、私の友人と同じように、そういう態度を人からされてしまっている人たちには話しかけるにするとは思うのだが、きっとそれは友人も私も歳を取ってからアメリカに来て、苦労した経験があるから、そうするのだと思う。元々アメリカ育ちの人には、そういう感覚はなくても不思議はない。ま、しかし、私はもしアメリカ育ちだとしても、「言葉が話せない人を入学させるなんて、どうかしている」なんて発言は、本人の目の前では言わないが。
しかしここで考えるべきことがある。大学院は、コミカレや4年制大学と異なり、専門分野を深く学ぶ場所である。教授から単に授業を教わるだけでなく、その分野での個人の経験や関心や知識などをお互いに与え合って、理解を深めていく場所である。(私は大学院生向けの授業は数クラスしか取っていないので、完全に大学院の授業の進め方を理解しているわけではないが、そう思っている。)そういう学びの場所に、いくら知識があるからとはいえ、全くコミュニケーションの取れない人がいたら、その人のそこにいる存在意義は一体どこにあるのだろう、とも思えてしまう。
言葉がたどたどしくても人に最低限の意思や知識を伝え、相手の話していることを理解する能力がないとしたら、そのプログラム全体の価値を下げることになってしまうのではないだろうか。何も授業に貢献できないとしたら、クラスメートの学ぶ機会を奪ってしまっているという言い方もできるかもしれない。
日本と違って、アメリカではどの授業でも大抵発言をすることが求められる。(大人数の授業は除く。)その発言がいつも適切なものであるとは思わないが、いろいろな人の意見を聞いていると、「あ、そういう考えもあるな。」「へぇ、知らなかったけれど、本当かどうか後で調べてみよう。」などと、クラスメートから得るものがあるのは確かだ。Undergraduateレベルの授業でもそう思うことがあるのだから、更に専門的なGraduate レベルの授業では(人数も少なくなるし)もっといい意見を聞くことができるだろうと普通の学生は期待していると思う。そこにいくら知識があるとはいえ、全くその知識を他の学生に伝えられる術を持たない人がいたとしたら、その人はクラスメートに貢献することが全くできないだろう。特にグループワークでは、一人一人の存在がとても大事だ。
私は言葉でのハンディキャップがある分、恐らくクラスメート以上に下調べをして用意しているし、何らかの貢献をグループにすることをいつも心がけている。言葉が通じないわけではないが、それでもネイティブの人と比べたら、同じ事を説明したり、説得したりするのは下手だろう。しかし言葉が下手でも、話す内容には意味があることを伝えるようにしている。
私が思うに、知識が豊富な人たちは、何らかの形でグループやクラスメートに貢献することは、私以上に簡単だと思う。しかしそれは最低限のコミュニケーション能力があって初めて可能になるとも言える。そこでもし英語のコミュニケーション能力が全くないとしたら、どうなるのだろう。そう考えると、「何で英語もロクに話せない人をここに入学させたのか、全く分からないわよ。」と発言した彼女の気持ちも、少しは理解できてしまう。
私は大学院は教わるだけの場所ではなく、教え合う場所でもあると思っている。なのでそこに全く言葉が話せない人が入学するというのは、果たしてどんなものだろうか、と思ってしまう。それがコミカレや4年制大学なら構わないと思うが、大学院以上のプログラムでは多少のコミュニケーション能力は、やはり必須なのではないか。アメリカの大学は、日本と違って、一方通行の授業ではないということを、大学院へ入学する留学生ははじめから知っておくべきだろうと思う。大学や大学院は英語を勉強するための場所ではないのだ。