珍しい銀行名を見つけた。その名も「株式会社 資金統合銀行」と言う。昭和20年の設立され、同じ年に閉鎖されている。戦争が終わった年?こんな年に新しい銀行が作られたのか?と思った。
この銀行、実は軍需融資を円滑にするために作られ、業務は日銀が担当していたらしい。昭和20年5月に作られ、9月にはGHQ覚書により閉鎖させられたらしい。ふーむ。昭和20年5月と言えば、東京はすでに空爆で焼け野原。そろそろ戦争も終盤で艦隊も失いつつあった頃。こんな時期でもまだ軍需品にお金を使おうとしていたのか。
ふと思い出したのだが、東京に住んでいた頃、私の家の前には元中島飛行機の工場があった。(今はNTT武蔵野研究所)ここは当時アメリカ軍のターゲットとなっていたようで、新しい建物を敷地内で建てるために地面を掘ると、時々不発弾が見つかった。そのため日曜日の朝は爆弾撤去日となることもあった。(平日は職員が大勢いるため、週末に不発弾処理となっていたようだ。)こういう日は朝7時頃から、「いませんかー?」とアパートの部屋のドアを警察(かな?)にノックされたものだ。半径500mだか1km以内の住人は午前中その範囲内から出て行くことを強制されていたのだった。私は最初の一度は出て行ったが、その後は家の中でいないふりをしていた。日曜日の朝くらい家でゆっくりしていたかったのだ。それにしても戦争から50年以上経っても、よく爆弾が地中にそのまま埋まっていたものだ。そして日本はこうやって爆弾一つ取り除くにしても、きちんと処理できる能力とお金があるから幸せだ。
そうそう、NTTの研究所にはとある噂もあった。それは秘密の地下通路があるというもの。何人かの職員に聞いてみたところ(私は一時この研究所内で派遣で働いていたことがある。)そういう大袈裟なものではないが、逃げ道のようなものはあったらしい、と話を聞いた。本当だかどうだかは分からない。しかし戦争のための飛行機を作っていた工場なのだから、いざというときに備えてどこかへ抜けられる防空壕があったとしても不思議ではない。
防空壕の話は、大昔に祖母から聞いたことがある。父は疎開していたため、防空壕の経験はないようだ。しかし父の東京の家は空襲で焼けてしまったらしい。
何だかたった一つの銀行の情報が、いろいろと私に思い出させる。
私は日本の夏と言うと、どうも終戦と蝉のうるさいくらいの鳴き声が重なって頭に浮かぶ。戦争なんて全く知らないにも関わらずだ。これは恐らく小中学生の頃夏休みに戦争に関する本を読んだせいだと思う。ガラスのうさぎとか、二人のイーダとか、はだしのゲンとか。一つの花も印象に残っている(これは教科書に出ていたため夏休みに読んだわけではない)。それに私が子供の頃は終戦記念日が近づくと、戦争の体験談がいつもTVで流されていた。私が子供の頃は、戦争は確かに過去のものであっても、ある程度の年齢の人にとっては、まだまだ完全に過去のものとなっていなかったのだと思う。
「戦争を知らない子供たち」を音楽の時間に習ったこともあったな。何も考えずに歌っていたが、メッセージ性の強い歌だったのだな、と今頃気付く。振り返ってみても、私は平和な時代に育つことができて幸せだったと思う。しかし私の中の日本の夏のイメージは、とても暑くて重いままだ。