引越しの当日、前のアパートが急に停電になった。水道が止まったり、電気が止まったり、あまり日本では経験しないようなことがこちらではよく起きる。アパートだけが停電なのかと思ったが、車を走らせてみてびっくり。「うー、信号もついていない。」前のアパートから新しいこの部屋までは大通りをいくつか越えなくてはいけないのだが、見事に全部消えていた。しかし、皆何事もないかのように、一台ずつ順番に交差点をクリアしていく。これが日本で起こったなら、大パニックになりそうだ。少なくても、我先にと取る行動が渋滞を引き起こしそうな気がする。アメリカ人は意外にこういうときに、動じることなく落ち着いた行動をとる。
これは普段からストップサインで似た状況に慣れているからだと思われる。ストップの標識が立っている交差点では、一時停止をし3秒数えてから進まなくてはならない。誰も3秒なんて止まっていないが、暗黙の了解としては、先に交差点に入った人から順番に進んでいくのだ。これはかなりきちんと守られている。順番を狂わせて先に進もうとする人を、私は今のところ見たことがない。多分、このルールを知る前の私が、無視していた唯一の人かもしれない。
日本では停電や水道が止まったりなんて、ほとんどありえない。工事や大災害の後くらいだろう。そうなるとすぐに人々はパニックになりそうだ。便利な生活に慣れてしまい、それが当たり前なので、それ以下のことは受け入れられないのではないかと思う。実際、物がなくなりそうなときに日本人は我先にと買い物に走る。オイルショックしかり、米凶作しかり。他のもので代用する発想がない上に、自分さえよければいいと思うから、スーパーであさましく買い溜めしたりするのだろう。少し話が逸れてしまったが、日本人は便利さに慣れすぎてしまっているため、それがない生活に順応するのが難しい。その便利さ以下の生活を受け入れるのは大変なのだ。
私はアメリカにやってきたときは、自分ではオープンマインドな人で、どこでもやっていけると思っていたが、実際、この環境に慣れるのにかなり時間がかかった。不便だし、サービスは悪いし、何で?と思うようなことがしばしば起きた。現に消えている信号を見たのは、ここ最近で3回目だ。本当に先進国なんですか?といちいち腹を立てていたが、最近は段々とこの国の環境に慣れてきた。そして近頃思うのは、少しくらい不便な方が人間にとってはいいのかもしれないということ。人としての機能を衰えさせないためには、少しくらい不便だなと思いながらも、自分で対処して生活していく方がいいのかもしれない。電気や水道がない生活なんて、日本にいたら、経験しなかっただろうが、ここでは経験する。その度にその有難さをつくづく実感する。
いいもの、いいサービス、いいシステムを当たり前として考えていると、それ以下の生活をするのは大変だ。人間、自分の中のスタンダードを下げるのは、意外に難しいのである。逆に、自分が当たり前だと思っていることより、いいものに出会うと、いいサービスを受けると、とても嬉しい。"日々無事に生活できる環境にいることを感謝する気持ち"を忘れないためにも、少しくらい不便な方がいいのかもしれない。(しかし信号が消えるのは一年に一度くらいにはしていただきたいが。)