昨日は、昨年の夏まで12年半ほど住んでいた武蔵野のアパートへ帰った。一緒に住んでいた人がまだそこにいるし、私の公的な住所も実はそこにあるのだ。今回の帰国時には、そちらへ帰らずに実家の方へ戻って来たのだが、まだまだそのアパートに私の荷物は多い。
久しぶりに吉祥寺の駅で降りると、店が変わっている。ほぼ毎日寄り道していたところが変わってしまうと、あぁ私はもうこの町の住民ではないのだな、と思う。アパートの周りも新しいマンションが建っていたり、家がなくなっていたり、新しいお店ができていたりして、新鮮である。たった1年4ヶ月離れていただけなのに、ここはここの時間がしっかり流れているのだなと思う。もちろん私だってこの期間、同じ様に時間は消費した。カリフォルニアと埼玉で。
約14年前に実家を出て以来、武蔵野は私の場所だった。公園でのキャッチボールや散歩、図書館での読書、市民体育館での太極拳やエアロビや水泳。飲むのだっていつも吉祥寺。私は武蔵野がとても好きだった。今日は銀杏並木の黄色に嬉しくなったが、私が武蔵野で一番好きだった季節は春だった。その理由は桜。
春になると、両側の桜が道の上で交差して、桜のアーチを作るのだ。桜の時期はこの木々がライトアップされる。自然は自然の場所で見るのが一番と常に思ってはいるのだが、この桜のアーチだけは別。人工的に植えられたものだとしても、毎日その下を通るのが嬉しくなるほど好きだった。毎年春になると、「あぁ、武蔵野に住んで良かったなぁ。」と思っていた。ここ数年は春先にいつも日本にいなかったので、ずっと見損なっている。今度は見れるのはいつだろう。
その場所にいないと、見逃してしまうことが多いのは残念だ。現在、仮住まいさせてもらっている実家。このあたりも急ピッチで周りが変わっている。私の家の前は大きなお屋敷(恐らく東京では見られないほどの大きな)と竹やぶだった。春になると父がいつもたけのこを(勝手に)取ってきて、筍ご飯を食べたものだ。今家の前は台地である。ここにはこれから道路ができるらしい。ここら辺は元々農家が多く、畑と田ばかりだったので、その変わりようと言ったらものすごい。
ここもまた、しばらく私がいない間にとてつもなく変わって行くのだろうな。
この二つの場所はとても大事な私の居場所だった。そして今度はCAのRiversideへ帰る。あちらにも、私の荷物は沢山だ。今は3ヶ所に私の持ち物が分散してしまった。人から見たら大したものは何もないが、私にとっては全てが思い出の品だ。そしてそれを保管してくれているそれぞれの場所は、私の大事な思い出の場所なのである。
あちこちに移動しているせいで、今私は自分の場所を失ってしまった。ここが私の場所と言い切れる場所がどこにもなくなってしまった。その上、これから先どこに住むことになるのか、自分でも分からない。
きっとこれからも先、今日感じた思いを“久しぶりに帰るかつて自分の場所だったところ”を訪れる度に感じるのだろう。嬉しさと驚きと少しばかりの疎外感。
今日はずっと私の居場所だったアパートの周りを歩きながら、しみじみとそんなことを考えてしまった。