さて、私は昨日の夜中までの一通りのスケジュールをこなし(いやー、結構タフな一週間だった、本当に。)、やっと今日はのんびりしている。朝から溜まっていた洗濯をしたり、ご近所の旦那さんと1時間半もお喋りしたり、買い物に行ったり、料理をしたり、ビールを飲んだりして、久しぶりの開放感を満喫。(まだ昼間の3時だが、既にビールは3缶目に突入。あーこの後、仕事なのに…。)
さて、今日は最近のひかりさんとのやりとりの中で、考えさせてもらったことが一つあるので、それについて書いてみようと思う。それは「Goodは必ずしもいい意味ではない」ということ。ひかりさんの「"internatonal"とか"nice"の正しい意味」のお話を読んで、あーそう言えばそうかも、と思い当たることがあったので、今日は「GoodやNiceの正しい意味について」考えてみる。
アメリカにいると、「good」は毎日何回聞いているかわからないくらいよく聞く。そして自分も “How are you?”と聞かれれば、大抵”Good.”や”Fine”と何も考えずに答えてしまう。条件反射に近いものがある。これは中学生の英語の授業の始めに必ず言わせられたので、そのときに完全に刷り込まれてしまったに違いない。しかし、これは日本人に限らず、英語圏の人も無意識にそう答えているような気がする。例えばスーパーのレジでは80%くらいの確立で、”Hi, How are you?”と聞かれる。このときに”Not too good.”なんて答える人はまずいない。(いるかもしれないが、今のところお目にかかったことはない)大抵の人は私と同様に “Good.” や “Fine.”と答えている。しかし私は、世の中の人皆が毎日それほどGoodな状態だとは思えない。挨拶のみではなく、会話ややり取りの中でもGoodというのは頻繁に登場する。そして、ひかりさんがGood と言われ痛い目に会われたように、“Good”はそれほどいい状態を表すのではなく、標準的で良くも悪くもない状態を指すのではないか、と思うようになってきた。
しかし人間は単純なもので、何かあまり上手くできなくても、goodと言われれば「そうか、Goodか、じゃ次はもう少し頑張ろう」という気に簡単にさせられる。特に最近の私はそうだ。good や niceは、そういう単純な私たちの心理をついた表現なのかもしれない。日本人や中国人の先生方には、違っていたら「違う」とすぐに否定することが多いが、アメリカ人の先生方は、例え生徒が頓珍漢なことを言っても、「一部当たっているかな」や「Good guess.」と言ったりすることが多い。私はこの「Good guess.」は、いい言葉だなと思う。生徒の発言を否定するわけでもなく、Goodという言葉を生徒が考えた過程を褒めるのに使う。授業中に生徒が躊躇せずに自分の意見を言える環境をインストラクターが自然に作り、生徒もそれに応えている。おまけにアメリカ人は元々人目をあまり気にする方ではないので(もちろん全員ではない)、当然授業は「意見を言いたい学生」でいっぱいになるのである。日本の授業とは全く違う。
以下、ひかりさんと同様の経験が私にもあり、心底同感。
ひかりさんのコメントを勝手に抜粋させていただきます。
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あと同様に思うのが、"Good question."
学生が何か質問するとこう言う先生が多くないですか?私は最初に質問してこういわれたときには、本当に自分は何か鋭い質問をしたのかもしれないとすっかりいい気分になってしまいましたが実は条件反射のように口にする台詞だったと後で気づきがっかりしたことがあります。
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これは私も全く同じように受け止め、後で同じように気がついた。
やはりGoodは日本人が考えるほど、必ずしも「良い」ということを表す意味というわけではなさそうだ。
うーん、やっぱり言葉は体感しないと本当の意味はわからない。