昨日、友人が言った。外国語を学ぶのには限度がある。彼は何の問題もなく、英語を話すけれど、書くのはあまり得意ではない。そして私に尋ねた。「kbtは自分の英語は2年前と(その人と初めて会ったのが2年前だった)比べてどれくらい向上した?説明してみて。」「あまり話すレベルは変わっていない。リスニングもまだまだ全然。書くのだけは沢山書いているから、大分ましになっているとは思うけれど。それほど目立って向上したところはない。」と言ったところ、「でしょ?それがkbtのリミットなんだよ。」と言われた。これが私の限界と人に言われると、かなりショックだ。
しかし私は日本に1年帰っていたし、彼みたいに一日6時間もTVを見るというようなことはしていない。というかできない。(TV好きでないところが私の問題。)そして宿題と仕事に追われてあまり時間がない、そして読んだり書いたりすることに比べると明らかに聞く量のインプットが足りない。なので、未だにクラスメートが言っていることが全部わからないという情けない状態ではある。これは確かにどうにかしなければならないことなので、もう少しリスニングのインプット時間を増やすようにしないといけないだろう。リスニングに関しては、全然費やす時間が足りていないことは明らかだ。自分でももっとどうにかしなくてはといつも思っていた。しかしその努力をしていないことで、それが私の限界と言われると非常に悔しい。確かに2年経つのに、目立ったスピーキングレベルの向上がないので、そう判断されても仕方ないが。しかしこれが自分の限界だとは、私は決して思わない。
なぜならライティングやリーディングに関しては、自分としてはかなり向上したと思うからだ。(あー、これを控えめにそれほど目立って向上したわけではないと彼に言ったから、誤解されたのかも。謙虚さって外国に来ると、途端に日本人の悪いクセとなってしまう。)努力した分の結果と進歩は、明らかに自分でも分かる。はるかに前より英語を書くのがラクになったし、読むスピードだって相当速くなった。しかしこれは自分の感覚でしかないので、人には上手く説明できない。
私は忙しさに追われて、いつも英語の「聞く」というインプットを後回しにしてきた。授業も一語一句聞き逃さない態度で臨んでいるかというと、決してそんなことはない。結構ボーとしていることも多い。こういう姿勢がいけないのだろう。しかしこれが自分の限界なんて、人に言われて本当に悔しかった。泣きたいくらい、そして頭痛になったほど悔しかった。あまりに悔しいかったので、これをバネにして限界だと言った彼に「限界じゃなかった」ということを証明するぞ、と固く心に誓った。見てなさい!(←とても負けず嫌い。)
しかし、彼は別に悪気があって言ったわけではない。と言うよりも私のことを考えてくれて、話し言葉が非常に必要な職業よりも、もっと私の得意なことをメインにした職業につくべきだという話の中で言った言葉なのである。彼曰く、私にはライティングの才能があるので、専攻をジャーナリズムか英文学にしたら?という話だったのだ。しかーし、ネイティブ感覚で英語を書くということに対しては、私は第二外国語としての限界があると思う。(どうしても感覚的なものは後から学んだからと言ってモノにできるとは思えないのだ。近づくことは可能だろうが。)ジャーナリズム、英文学、確かにライティング自体を突き詰めていくのなら、そういう専攻もいいとは思うのだが、それは最終的に私のしたいことではない。そう伝えたのだが、「自分の得意分野を伸ばすのが一番いいと思うよ。」というのが彼の考え。
何にせよ、要努力。しかし悔しさはものすごいパワーだ。本当に頭が痛い。見てらっしゃい。